33日後、私は30歳。

抱負というには地味なものかも知れないけれど、この先も過剰な幸せからは距離を置いて、大人しく生きていたい。1946年、メル・トーメとロバート・ウェルズの共作の一つに「Born to be blue」という曲がある。映画にもなったね。演奏家サイドの話だったように思うけど。でもね、あの歌詞だよ。あの感じがいい。色とりどり、目まぐるしく加速していく世界の水底で、誰かの撮り損じた青写真みたいにボゲェーっとしていたい。

思い起こしてみれば、ひとつの思い出の年季というものに少し驚く。その思い出というのが四半世紀も前の事とは、と気付いた時、ゲッと思った。エイジングケアに必死こいていた郷里の母。嫁入道具に持ってきたという立派な鏡台は、儀式の祭壇のようだった。あの思い出の中の母と、現在の自分が、間もなく同い年となる訳だ。

しかし何故だろう、心境の一部にピンと来ないところもあった。妙な感じがしつつも、実感は希薄だ。どうも私は「歳を取る事」そのものについて、特に怖いと思っていないらしい。たぶん、期待がなければ絶望もない、というやつかも知れない。

昔から「光る」ものなどなかったみたいだし、この先光るだろうなんて兆しもない。ただ「しようのない大人」である現在の姿ばかりは、恥じている。それはもう、それなりに。

ずっと、他者の尊敬を一身に受けるような大人になりたいと願っていた。結局、そんなふうにはなれなかった。もうこの現在が、丸ごと全ての答えなのではないかと思う。

半年に一遍同じ場所に生えてくる白髪より、顔面に刻まれていく年輪めいた記号より、「内面的な問題」が、私という存在を「よりイタい奴」たらしめてきた。遠回りせずに言ってしまえよ、「メンヘラ」ってやつだ。私は未だに、不安や恐怖を克服出来ていない。

みっともないだろう。みっともない事なんだ。自分をまるで愛せない。それで他人に自己愛代わりの愛というやつをねだりそうになる。比較的マトモな状態ならぐっと堪えるところだが、時に失敗もする。最高にたちが悪い事だ。だから、「自分が大好きだ」と何の気後れもなく言葉に出来る向きが、信じられないのと同時に羨ましくもある。羨ましい。どちゃくそ羨ましい。嫌味のつもりはない。マジにそう思う。そういう気持ち、叶うなら分けてほしい。あんたらみたいになりたいよ。

ところで、昨日は七夕だったのに願い事をし損ねてしまった。そこでという訳でもないけれどお願いがある。今はまだ、もうしばらくの間、私を「オバサン」とは呼ばないでほしい。なにぶん未熟なもので。主に精神が、魂がその域に達していないもので。

「オバサン」と称するには迫というべきか、胆というべきだろうか…いや、「凄み」。「凄み」。これだ。これが決定的に足りないんだ。だから、許してほしい。

かといって「お姉さん」という呼称は綺麗過ぎる。もう少し、うすこん汚い感じでありたい。となると「オネイサン」といったところか。それがいいのかも知れない。「未熟なオバサン=オネイサン」という事で、ひとつよろしく。

しかしね諸君、この私を「オバネエチャン」とだけは呼ばせないからね。断じてね。

間違ってもそんなふうに呼ぶんじゃあないよ。

8 よいよい